風雲児の 播州雑記帳 その4 |
戦国時代の宴会料理 播磨国・置塩城1555年 |
『播州置塩夜話』(ばんしゅう おしほ(おきしお) やわ)という史料があります。 これは播磨国(はりまのくに 兵庫県南西部)の置塩城主・赤松義祐(よしすけ)、則房(のりふさ)の家臣で、城の台所方を勤めたとされる下毛野武盈、相賀光重、相賀重茂が、城内で行われた宴席に出された珍しい料理について、永く子孫に伝えるために書き記したものです。 天正元年(1573年)に書かれた上巻『六花亭物語』は、弘治元年(1555年)11月7日に催された宴会の様子が、天正2年に書かれた下巻『屋形物語』は、上巻の18年後・天正元年(1573年)10月8日に催された宴会の様子が詳細に描かれています。 では、この史料を使って、戦国時代のリアルな宴会を体験してみましょう! |
※『播州置塩夜話』は、江戸時代中期の宝暦ごろに編纂された播磨の地誌『播磨鑑』(はりまかがみ (鑑)と略すことにします。)と、宝暦2年(1752年)、播磨に関連する様々な史料を集成した『播陽万宝知恵袋』(ばんようばんぽうちえぶくろ (袋)と略します。)に収録されています。(ただし、(鑑)は上巻のみ収録。) ※置塩城は、播磨・備前・美作(みまさか)を治めた大大名・赤松氏が現在の姫路市夢前町に築いた大規模な山城で、戦国時代初期には三カ国の政治や文化の中心となっていました。しかし弘治〜天正頃の赤松氏(本家)は一定の権威こそあったものの勢力を大きく後退させており、播磨国内にも多くの勢力が割拠している状態でした。なお、赤松氏については、当サイトの播磨雑記帳その3をご覧ください。 ※六花亭物語の「六花亭」は置塩城内にあった茶亭の名前だそうです。ホワイトチョコは売っていません。 ※この『播州置塩夜話』を分かる範囲で解説、考察していこうと思っていますが、誤訳、大間違い、思い込み、暴走など多々あると思われます。ですから料理を再現したり薀蓄話を語ったりするときは、併記している原文の方を使用されることをお勧めします。 なお、私の注釈を鵜呑みにすることによって恥をかく、不味い料理になる、戦国時代にはあり得ない料理や外人が作る変な和食のような勘違い料理が出来上がる、川魚の生食で寄生虫症になる等、何が起ころうとも管理人は一切の責任を負いません。そもそもこの企画自体、私の力では無謀な挑戦だし。 |
・1555年の情勢 1555年(天文24年/弘治元年)といえば、毛利元就が陶晴賢を撃破した「厳島の合戦」が起った年。織田信長が今川義元を討った「桶狭間の合戦」の5年前です。 時の将軍・足利義輝は近江の奥地に追放され、「天下」と呼ばれていた畿内(きない=京阪神+奈良)では、三好長慶(みよし ながよし)が将軍の権力を前提とせずに支配を行っていました。 播磨では1554の秋から55年の春にかけて、「赤松殿を御合力(支援)のため」として三好氏の軍勢が東播磨に進軍。長慶の弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)は赤松晴政の嫡男・義祐とともに明石城を攻略して明石氏を服属させ、三好一族の三好長逸(みよし ながやす)は三木城を攻撃して、別所氏を赤松氏と和睦させました。この一連の戦いで赤松氏は三好家の軍事力を頼って東播磨を平定したわけです。(というより東播磨は三好氏の勢力圏に入り、明石氏・別所氏は三好氏の招集に応じてしばしば従軍していくことになるのですが・・・) そんな動乱も少し落ち着いた(・・・のかな?)11月7日、赤松晴政の子、赤松義祐の兄で、飾西郡才(しきさいぐん さい=姫路市広畑区才)の領主・才 伊三郎(さい いさぶろう)が置塩城にやってきました。 そしてこの「才殿」をもてなすための宴が始まりました。 衰退著しいとはいえ、かつては幕府の要職を占めた大大名の家柄。力は無くても地位はあり、影響力もまだまだ強かった赤松家当主「屋形殿」が作らせた料理。さあ、どんなものが出てくるのでしょうか? |
※才 伊三郎は、村上源姓赤松氏譜によると「諱(いみな=本名)は始め祐治、のちに政直で、仮名(けみょう)は伊三郎、左馬介。永正14年(1518年)誕生。飾西郡才村に居住。永禄11年(1568年)6月5日に数え年49歳で没。」とあり、赤松諸家大系図でも概要は同じ。本家を継いだ義祐との年齢差は3歳です。(母親については記述が無いことから、才伊三郎は側室の子だったのではないでしょうか) |
※播陽万宝知恵袋の解題では「屋形殿」=赤松義祐としていますが、義祐が置塩城主を継いだのは、上記の系図では弘治3年(1557年)正月となっています。また、義祐とその父・晴政との間に「騒劇」が起こり、晴政が置塩城を追われるのが弘治4年(1558年)ですから、「屋形殿」=赤松晴政の可能性が高いのではないでしょうか。 なお、播磨鑑にのみ『屋形殿ト云ハ赤松上総介播磨守則房也』『才伊三郎殿 飾西郡才村ニ溝居ス 赤松義祐ノ弟ナリ』という注が入り込んでいますが、さすがにこれは後世の誰かが付け加えた誤情報じゃないでしょうか。(私も系図を確認せずに才殿=義祐の弟と書いてしまってましたが。) |
・屋形殿と才殿の御膳 最初は家臣を交えず、屋形殿(赤松 晴政or義祐)と才殿(才 伊三郎)の二人だけで食事を摂っています。 料理人が最初に運んできた膳は、白飯、すまし汁、薬味という恐ろしくシンプルなもの。これには主客とも目を疑ったかもしれません。 ところが・・・ ・一の膳 狸食
狸食は何と読むのでしょうね?もしかして「たぬくい」「たぬじき」とか? 一見シンプルに見える料理には、驚きの仕掛けがしてありました。 ちなみに、島根県西部山間部には「うずめ飯」、広島県福山市には「うずみ」という似た料理があるそうです。江戸時代中期が起源とされているそうなのですが、もしかしたらこの狸食と何らかの関係があるのかもしれませんね。 なお、置塩城の狸食は18年後の宴会にも登場します。それも進化形で! ・二の膳
狸食の御膳が引かれ、代わりに二の膳が出てきました。 雁(がん、かり)はカモ科の鳥の一群で、現在は捕獲が禁止されています。 刺身は鯉とスズキですね。チョクはお猪口(おちょこ)と解釈しました。魚の名前ではないと思います。煎り酒というのは、酒と梅干、ダシ等を半量になるまで煮詰めた調味料で、醤油が普及するまで刺身には欠かせないものだったそうです。 なお、戦国時代には、濃口醤油、淡口(うすくち)醤油といった現在の一般的な醤油はまだ存在していません。(たまり醤油はありました。) 関西の料理に欠かせない「うすくち醤油」の誕生は1666年。龍野赤松氏の最後の当主で、”天空の城”として知られる竹田城主となり、今も慕われ続けているほどの善政を行った赤松広秀の家臣の子孫たちによる発明です。 ・三の膳
塩引き鮭は、鮭に強く塩して丸ごと干したもので、現代では新潟県村上市の物が有名です。鮭自体は豊岡の円山川や鳥取の千代川にも遡上しますので、播磨でもそれほど縁遠い魚ではなかったのかもしれません。 シギは干潟などに生息する嘴の長い鳥です。狩猟鳥に指定されているのもいますが、現代ではウズラの方が簡単に入手できますね。 宝命酒とか、次に出てくる延命酒というのは薬用酒のようです。現代でも色々ありますね。1返しというのは言うまでもなく、ついでつがれて1返しです。 ・酒と肴
色々な酒と肴が運ばれてきました。 チンタの酒は赤ワインのこと。この時期にもう飲まれていたんですね。まあ鉄砲伝来から12年、キリスト教(カトリック)伝来から6年経ってますし、海に国境なんてない時代ですから不思議ではないですけどね。 鱈は山陰の深場にも居ますが、生での輸送は当然不可能なので、棒ダラのようなものでしょうかね? 取り肴を検索すると、「1 一つの器に盛って出し、めいめいが取って分ける酒の肴。」「2 正式の日本料理で、最後(3度目)に酒を出すときに出す肴。珍品などを盛り、主人自ら取り分けて客にすすめる。そのあとは茶菓になる。」 とありましたが、勝栗・熨斗鮑・昆布等の「口取肴」なのかもしれません。 播磨鑑に出てくるカマスゴは、今や兵庫県の瀬戸内側の名物となったイカナゴのこと。時期的にも新子じゃなくてフルセ(親)の方ですね。 後でも出てくる「玉子のふわふわ」は、江戸時代に全国的に大流行した料理だそうです。作り方は「熱した出汁に、よく泡立てた卵を一気に流し入れ、蓋をして蒸らす。出来上がったものをだし汁ごと器によそい、飾り付けとして胡椒や青のりを振る。」とのこと。 「くしこもどき」はさっぱり分かりません。クシコを検索すると、「ナマコを串に刺して干したもの」「クコの実」が出てきますが、どうにもイメージがわきません。くしこそのものを使っているのに「もどき」というのも訳が分かりませんし。 |
・才殿の家老御膳 才伊三郎(才殿)と屋形殿が二人で食事を摂っている時、才殿の家老である神村斎(神村)と、太刀持ちなど2名も、城内の「具足の間」で食事を振る舞われていました。置塩城(赤松本家)の重臣・秋津民部と、太刀持ち2名も相伴しています。 ・一の膳
屋形殿の計らいか、神村達にも狸食が振る舞われています。どんなリアクションをしたんでしょうかねえ? ・二の膳
狸食が引かれ、代わりのお膳が出てきました。 青和えというのは、青豆とか、蓼(たで)とか、青菜とかを茹でてすりつぶして加えた、青い色の和え物だそうです。 ・三の膳
・与の膳
神村達の最後のお膳です。ちなみに四番目の膳は縁起を担いで「与の膳」と書かれます。 ここでは鮎の寿司が出てきますが、これは当然ながら握り寿司ではなく、なれ寿司もしくは押し寿司でしょうね。 主君たちの食膳と比べると簡略化されていますが、それでも素晴らしいご馳走です。 そして、現代の旅館や料理屋でそのまま出しても全く違和感がない献立です。 |
・乱酒、そして無礼講。 屋形殿と才殿の食事が一息ついたところで中入りとなり、置塩城の家老・山田助九郎らご相伴の家臣たちと、酒、肴が登場。本格的な乱酒(酒宴)が始まりました。 まず君臣の間で盃のやり取りがあり、猿楽師(能楽師)が謡を披露。 具足の間にいた神村も呼び出されて酒宴に加わります。 宴は段々盛り上がってきて飲み放題、そして日頃の厳しい身分制度を取り払った無礼講となりました。 置塩の家老の福岡十太夫と神村が、片足を上げて手を振り足を振り、猿の顔真似でにらみ合い、口を開け扇を持って入れ違い、顔をしかめ首をねじるといった猿楽の舞で座を爆笑の渦に巻き込みます。 箙(えびら)や弓、碁盤、笛や叩き鉦から、猫や腰元までもが当たる富引(福引)も行われ、主君、家臣、猿楽師までが一緒になってくじの縄を引き合うという、面白くてたまらない饗宴が繰り広げられました。 「播州置塩夜話」には、この舞や謡の詞、福引についても詳細に書かれています。「君ガ世ハ千代ニヤチヨヲサヾレ石岩尾ト成テ苔ノムス今イク代々ニナルミガタ・・・」というような詞も出てきます。やはり君が代はめでたい席には欠かせないものだったんですね。 でも、そこまで扱ったら終わらなくなりますからバッサリとカットして、酒宴で出された料理に関する記述だけを抜き出してみましょう。
椰子盃(やしを/やしはい)はヤシの実で作られた盃だそうです。
鯛一コンヤキのコンは「喉」と書いて魚の数を著す数詞ですので、「尾頭付きの焼き物が参加者一人一人に振る舞われた」と解釈しました。サイズが気になるところです。ホンテは本手でしょうか?本式の焼き魚?? ナマコのふくら炒りは、ナマコをとろ火でふっくらと煮た物のようです。 辛螺(からにし)は辛さが特徴のイボニシという肉食性の小さな巻貝。・・・かと思いきや、もっと大型のアカニシもこう呼ばれるそうです。壺炒り(壺焼き)にするとなれば当然こちらでしょう。ぬめりは凄いですが、美味しい貝です。
神村さんは酒豪です。とにかく飲みます。
タンバン(胆礬)は硫酸銅などの鉱物で、緑色を出す釉薬として使われるそうです。大サワチは高知の皿鉢料理に使われるような大皿です。 アマノリ(属)は最も一般的な海苔、ウップルイ(ノリ)は島根県十六島(うっぷるい)の名を冠する岩海苔、ヒジモはひじきかな? 「器の中にアマノリ、但馬ノリを打ち振って、ネギ、大根等を散らす。」「器の中にアマノリ、但馬海苔、十六島海苔、ひじも、ネギ、大根等を散らす。」さあ、どちらでしょうか?? センは分かりません。
鯛の酢締めですね。旨そう!
ちよよめん膳は分かりません。 「かしわ」は鶏肉でしょう。西日本では今も広く使われています。黒和えは炒ってすり潰した黒ゴマを使った和え物。 玉子のふわふわがまた登場。ほんま人気ですね〜。 茶菓子として出された有平糖(あるへいとう)は、南蛮から伝わった砂糖を煮詰めて作るハードキャンディー。最後のかしわはやはり鶏肉なのかなあ?? 無礼講は朝まで続いたようですが、やがて上下ともに疲れ果て、お開きとなりました。 家臣たちは退出し、才殿と神村は点心に塩を付けて食べてから休んでいます。 「播州置塩夜話」には、この酒宴で家臣たちが飲んだ酒の総量まで書いてあります。 その量、なんと・・・
職場の酒好きの人にこの話をしたら「アホやろ!こいつら!」と言ってました。私もそう思います(笑) 今よりアルコール度数は低かったといいますし、升の量は時代によって変わります。この時代の1升は現在の約1.8リットルよりは少ないのですが、それでもほんまなんでしょうか?これ? あと、合計がちょっとおかしいですが、下毛野さん達を責めないでくださいね^^ なお、この『播州置塩夜話』の下巻にあたる『屋形物語』では、酒3升でくたびれてしまった主賓・宇野下野守(うの しもつけのかみ)のことを「酒不得手」と書いています。この時代、3升程度では下戸扱いだったんですね。 |
・昼ごはん 屋形殿と才殿が起きたのは昼九つ(正午ごろ)。韮山城の伊勢さんが聞いたら怒り出しそうです。 目覚めた二人は城の書院で食事をとりました。 才殿の家老・神村にも特別に同じ献立が「具足の間」で振る舞われ、小姓二人が相伴しています。 なお、この時は酒宴は無し。(一応酒は出てますが。)ま、昨夜あれだけ飲んだんだから充分ですよね^^ ・一の膳
いも巻き汁は分かりませんでした。いも=芋だとすれば、サツマイモの渡来はまだまだ先、ジャガイモは微妙な時期ですし、あっても普及はしていませんから、芋=里芋や山芋の類でしょうね。 播磨鑑では「粟飯(あわめし)」播陽万宝知恵袋では「栗飯(くりめし)」と分かれていますが、播陽万宝知恵袋の編者の天川友親は「宍粟(しそう)」→「完栗」など、「粟」を「栗」と書きたがるんですよね・・・。 ・二の膳等
次の膳が運ばれてきました。 「つくも」は海藻の名前だそうです。 猿の木取(さるのきとり)は、珍味の一種らしいという所までしか分からないようです。 ・才殿帰る。 食事を終えた才伊三郎は暇乞いをし、才の構居に帰っていきました。 置塩城の台所方もとりあえず一息ついたことでしょう。 |
★おまけ★ 18年後の「狸食」 冒頭に書いたとおり、『播州置塩夜話』下巻『屋形物語』は天正元年(1573年)10月8日の宴会を扱っています。この時の主賓は宇野下野守(うの しもつけのかみ)。つまり、播磨国宍粟郡(しそうぐん)長水(ちょうずい)城主である宇野政頼、もしくはその関係者です。 天正元年は、足利義昭が共闘してきた織田信長を見捨てる(2月)、武田信玄の死(4月)、足利義昭の追放(7月)、越前朝倉氏の滅亡(8月)、近江浅井氏の滅亡(9月)など、世の中が大きく変化した年。播磨でも織田信長に味方する別所氏が姫路付近まで侵攻し、反信長派の赤松則房、小寺政職(こでら まさもと)、黒田官兵衛らと交戦した「印南野(いなみの)の戦い」が勃発しています。(大河ドラマ『軍師官兵衛』では、この戦いも赤松本家も「無かったこと」になっています。)さらに11月にはあの三好家(宗家)も滅亡することになります。 そんな年の10月に催された宴に、あの料理が登場します。18年前、才殿や神村達を驚かせた「狸食」です!
18年前には白飯だったのが、蕎麦に変わっているのです。 具材や香頭を比べてみると・・・
白飯の下から具材が出てくる1555年バージョンと、蕎麦の下から具材が出てくる1573年バージョン。あなたはどちらを食べてみたいですか? |
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※『播州置塩夜話 屋形物語』(播陽万宝知恵袋)から、最初の料理のみを抜き出しています。 ※この時期は、そば粉を練って湯がいて塊のまま食べる「そばがき」から、麺にして食べる「そば切り」への過渡期に当たるため、この料理の蕎麦も「そばがき」なのかもしれません。 でも「そばがきの下から種々の物が出る」という光景は少々想像しがたいですね。 ※印南野の戦いの時点で反信長だった赤松則房、黒田官兵衛は後に信長に付き、小寺氏と信長派だった別所氏は信長と戦うことになります。赤松本家と連携していた宇野氏も信長派になった則房と交戦。最後は秀吉に本拠・長水城(ちょうずいじょう)を落とされて滅亡しています。 |
戦国時代のリアルな宴会料理、いかがだったでしょうか? いくつか分からないもの、入手困難な物もありますが、何とかなりそうなものも多いですので、原文の方を参考に再現に挑戦してみてはいかがでしょうか? 置塩城の御膝元・姫路市夢前町や、赤松氏発祥の上郡町の「地域おこしグルメ」にしてみても面白いかもしれませんよ! ・・・と書いてから5年、平成から令和に変わろうという2019年、夢前町で農業や食品加工業、旅館業などに携わる方たちが立ち上げた「夢前ゆめ街道づくり実行委員会」によって弘治元年バージョンの狸食が復元され、夢前町内の3施設で販売されることになったそうです。(兵庫県中播磨県民センターが支援しているとか。)食べに行かねば! 2016年には天正元年版の狸食も横浜の串揚げ屋さんによって再現されていたようですね。 なお、宇野氏を歓待した赤松則房は、戦国時代の風習や豆知識、炎上必至の身内ネタなどを書き留めた短文集「赤松則房雑談聞書」という面白い史料を残してくれています。こちらのページで解説していますので、よろしければご覧ください。 |