風雲児  烈風伝
  ・足摺の事
    鬼界が島(硫黄島)、諸行無常の納竿釣行

2012年 12月29日  鹿児島県 硫黄島
 年末、12月29日午前6時、「かまちゃん」や「Uenoさん」はじめとする多くの釣り師とその夢を乗せた黒潮丸が、巨大なワカナ(茶グレ)や中型のクロ(口太グレ)の群れが屯する「硫黄島」に向けて出港しました。
 渡船が去った枕崎港には釣り師が一人だけ残っています。涙ながらに黒潮丸を見送る、その釣り師の名は風雲児。

 この日の乗客の誰よりも遠くから、誰よりも大きな夢を持ってやってきたはずの者がどうしてそこにいるのか?千載一遇のチャンスに自ら背を向けることになったのか?
 その原因は私が犯してしまったたった一つのミスに他なりません。


 私が兵庫県の自宅を出発したのは12月27日午後のこと。神戸市内で発生していた渋滞をクリアして辛うじてたどり着いた大阪南港からフェリーに乗り込み、翌28日午前9時半、雨に煙る鹿児島県志布志港に上陸。
 その正午過ぎ、鹿屋市にある「海上自衛隊鹿屋航空基地史料館」の展示に心を奪われていた時に携帯電話が鳴り、「黒潮丸の出港が決まった」というかまちゃんの弾んだ声が響きました。

 今回は天候が悪く、離島釣行は無理だろうと覚悟して臨んでいました。
 そこで北西風に強い枕崎沖磯か、久志の磯への釣行を主軸にしておいて、万が一に天候が回復して硫黄島や黒島への日帰り便が出るということになれば飛び乗ってみるという作戦と、絶不調には目をつぶって風に強い宮崎県北に転進する作戦をかまちゃんと立案し、そのどちらを取るかこの日正午過ぎに決定する予定でした。
 それなのにまさかの展開。29日が波高3m後1.5m、微風、気温高しという天候になり、朝6時枕崎出発、夜11時回収という変則的な日程とはいえ硫黄島アタックが可能になろうとは!

 遠隔地の離島遠征は奇跡の積み重ねの上に成り立っています。
 
 南九州の離島便の渡船の数少ない稼働日である12月29日に、我が家から遠く離れた枕崎に居るために必要となる27日、28日という日に年休を取れたこと自体が一つの奇跡。そして一人では極めて難しい「瀬泊まり釣行」を実現するために必要な「かまちゃん」「Uenoさん」という心強い仲間の存在と、釣行日を合わせることができたということも、とんでもない奇跡です。
 そこにきてこの天候の奇跡です。欣喜雀躍。私は史料館を飛び出して、止みかけの雨の中、一目散に枕崎を目指します。


 鹿屋市のある大隅半島から枕崎市のある薩摩半島に移動するなら、陸路よりもフェリー利用が便利だし一般的です。
 フェリーにも「根占〜山川」「垂水〜鴨池」「桜島港〜鹿児島港」の3ルートがありますが、火山のない地域に住んでいる私はやっぱり桜島港経由を選択してしまいました。(雨のため、桜島の頂上部は見えなかったけど)
 
 15時間半かかった「さんふらわあ」とは違って「桜島フェリー」は15分の船旅。鹿屋市内の釣具店で手に入れた「釣恋人(つれんど)」という雑誌に載っていた硫黄島を含む南西諸島でのワカナ釣りの記事を読んだり、テレビに移っていた松井秀喜選手の引退会見を見たりしているうちにもう鹿児島港に到着です。
 私は「さんふらわあ」に乗っていた時のような感覚でゆったりと階段を降りかけると、車はもうほとんど残ってないではありませんか!
 「しまった!」私は大慌てで階段を駆け下り、車両甲板にポツンと残った車へ向かって駆け出しました。
 次の瞬間、私の体は空中に舞い上がっていました。そして最初に左肘が、次いで左肩と腰が硬い甲板に叩き付けられ、全身がどうと転がったのです。

 雨と火山灰に濡れた白線に勢いよく乗ってしまったがために起こったスリップ事故。
 のんびりしすぎたこと。こんな時に走ってしまったこと。極め付けはすり減ったドライバーズスリッパなんかで甲板に降りてしまったこと。私の不注意が招きよせた痛すぎるミスです。
 あまりに見事な転倒に、びっくりした顔をした船の係員が駆け寄ってきます。でも顔をしかめてうずくまっている暇はありません。入れ替わりに次の便の車が乗ってくる・・・。私は飛び起きて腕や体が動くことを確認すると、すぐに車に乗り込んで振り向きもせずにタラップを降りていきました。

 体は痛いけど、うめき声を上げるほどでもありません。この日は年末にはあり得ないほどに暑かったので運転席で半袖になってみましたが、左肘には軽い擦りむき傷以外に変化は見当たらないので一安心。ドラッグストアに寄って、店員から勧められたインドメタシン配合の湿布薬を買って貼り付け、ついでに翌日の食糧等も調達してから枕崎へ。園田釣具店での氷や予備餌(メインの餌は黒潮丸が用意してくれている)の購入と、いつもの「まんぼう」での食事を済ませ、午後8時にはもう宿の布団の中に潜り込んでいました。

 布団の中で寝転ぶこと8時間。その間一睡もできません。硫黄島という最高のフィールドに最高の条件で立てるという期待と興奮と、寝返りを打つたびに走る左肘の擦り傷の痛みが眠りを阻んでいるのです。前夜のフェリーでは1時間程度しか眠れなかったし、前々夜も4時間ほどしか寝ていないというのに・・・。釣りの前の不眠症が年を追って激しさを増して行っています。「安眠」「失眠」といったツボを押しても効果はありませんでしたし。
 まあ転んで眼を閉じているだけでも体力はそこそこ回復しているし、硫黄島までの航程1時間半にも眠るチャンスはあるさ。

 4時半に起床するとまず、貼りっぱなしだった湿布を剥がしてみます。その瞬間、眠気は一気に吹き飛びました。

 湿布の下から現れたのは、拳の半分ほどの大きさに腫れ上がり、青黒い内出血の袋と化した左肘。拡張型心筋症の治療に使っている抗血栓薬ワーファリンの影響か、湿布を貼り続けていたのが悪かったのか・・・。
 ただ相変わらず擦り傷を除いて痛みは少なく、関節の曲げ伸ばしも可能ですのでとりあえず身支度して港へ行ってみよう。


 枕崎港には既に多くの釣り師たちが屯し、これから繰り広げられる釣りへの期待という強烈なオーラを満ち溢れさせながら、思い思いに準備を整えていました。人吉方面から来られた「かまちゃん」と「Uenoさん」も無論、その一種異様な興奮の渦の中に身を置いてスタンバイをしていました。

 私はその二人に挨拶し、会話を交わしながら迷っていました。
 行くべきか、行かざるべきか。

 航路の先には、アタックすることすら難しい硫黄島で過ごす時間と、この時期には考えられないほどの絶好の海況が約束されています。
 肘を見れば溜まった血がタプタプと揺れるのが不快なものの、リールのハンドルくらい回せそうだし、撒き餌杓も振れそう。もし竿が触れなくても二人の釣りを見学し、硫黄島の雄大な景色を眺めながら会話を交わすことができるだけでも十分な気さえします。
 何より今回はこれが最後だろうという覚悟を決めて実施した南九州遠征。不整脈の頻発など徐々に進行する様子を見せる不治の病。こんな連休が取れるかどうか・・・いや、来年度仕事があるかどうかも分からないという状況。さらにはどんな手を使ってでも上げられる税負担。
 今行かねば次は無いかもしれない。しかし・・・

 車に戻ってクーラー等の荷物を持ち上げた時に、心が決まりました。
 やはり無理だ。何かあってからでは遅いし、自分勝手な感情でここに集まった多くの釣り師に迷惑をかけることなんてできやしない。

 私はその決意をかまちゃん達と船長に伝えました。そして気分だけでも・・・と、右手を使って荷物の積み込み等を手伝い、すでに解凍済みの餌代4000円を船長に支払って再び枕崎港の岸壁へ飛び移り、不注意という罪を犯してしまった己に悔し涙を流しながら船を見送ったのです。

 沖へ去っていく二人の仲間。港に一人取り残される私。この構図はまさに、『平家物語』巻第三「足摺の事」に描かれたものではないか・・・。

 俊寛僧都(しゅんかんそうづ)、藤原成経、平康頼の3名は、鹿ケ谷事件、つまり平家打倒の陰謀の発覚によって鬼界が島(硫黄島)に流罪となっていたのだが、治承2年、京都召喚の赦文(ゆるしぶみ)が下される。しかしその赦文には、平清盛が激しく憎悪する俊寛の名前はない。そう、俊寛だけには都帰りは許されず、ただ一人硫黄島に取り残されるという過酷な運命が待っていたのである。
 俊寛は「都までこそ叶わずとも、せめては、この船に乗せて九國の地まで」と赦免船への乗船を乞うが、船べりに必死でしがみつくその手を払いのけ、船はついに出航する。

 『僧都、せん方なさに、渚に上がり倒れ伏し、幼き者の乳母や母などを慕ふやうに足摺をして(地団駄を踏んで)、「これ、乗せていけ、具して行け」と宣ひて、喚き叫び給へども、漕ぎゆく舟の習いにて、跡は白波ばかりなり。いまだ遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖の方をぞ招きける』

 まさか、この場所で平家物語を実演することになろうとは・・・。悔しいけど、これはこれで物凄い体験じゃないのか・・・。


 私は港から宿に戻って9時まで寝転んでいましたが、やはりどうしても眠ることはできませんでした。宿の向かいにあった病院も今日は開かないそうですし、とにかく自宅までの823kmを走破して帰るしかありません。見るも恐ろしい内出血もさらに広がっていますし、熱でも出てこようものなら大変です。急がねばなりません。走れる間に少しでも兵庫県に近づいておこう。平家物語の俊寛僧都は硫黄島において食を断ち、餓死を選択することになりますが、私は野垂れ死にまで演じ切る気にはなりませんでしたから。
 
 人間というものは、気が張り詰めていると何とかなってしまうもののようです。
 途中、鹿児島県在住のKICIROWさんにお会いしたのと、その時間調整を兼ねて、南さつま市加世田の「竹田神社」に立ち寄りはしましたが、それ以外はただひたすらに前進。広島県宮島SAで心配して駆けつけた家族・親戚に拾ってもらいはしたものの、相生〜枕崎間・夜行フェリー+1泊2日という、通常では実行するはずもない行程をどうにか終え、地元の病院の夜間窓口に飛び込むことができました。
 結果、幸いなことに骨折等は見つからず、出血がかえって血管を圧迫したことで血が止まって最悪の事態を招かずに済んだようです。結構な出血だったのに患部の切開といった治療が行われることもなく、「冷やして湿布」というごく普通の方法を指示されるだけで済んでくれました。とりあえず一安心です。


 ところで、計画通りに硫黄島に上陸した二人はどうだったのか?
 道中で電話を入れたところ、硫黄島は予想通りに波も風穏やかで魚の活性も非常に高いという考えられないほどの好条件での釣りとなり、昼釣りでは45cmまでのクロ(口太)を10枚と11枚。夜釣りは薩南三島を代表する名礁・鵜瀬に移動し、Uenoさんは50cmのワカナ(尾長)をゲットし、かまちゃんも10号の道糸を飛ばされる大バラシを演じたそうです。
 二人が私の分まで釣ってくれた。そんな素晴らしい納竿を果たすことができて本当に良かった。とは言え、一方ではやはり自分に対する怒りと悔しさが込み上げてくる私に、竹田神社に立ち並んでいた石碑 ― 島津日新斎忠良(じっしんさい ただよし:島津家中興の祖とされる戦国武将。戦国島津4兄弟の祖父)公の言葉は、こう示してくれました。

 『少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなき十六夜(いざよひ)のそら』

 今回も変わった体験ができたし、仲間とも会えた。命もまだ残っている。釣りをしていない釣行記なんて斬新なものも書けた。釣りができなくてもいいじゃないか。やりたいことが全て叶って、満たされてしまえば、後はあっという間に欠けていくのみ。そうなってしまったら面白くないじゃないか!

 こんな納竿も、まあいいのかもしれませんね。
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