風雲児の播州雑記帳 その3
播磨が燃えた時代! 〜室町時代の大名(たいめい)赤松家ものがたり〜

・その手で時代を創った英傑  赤松円心

上郡・宝林寺の円心館にある
円心の木像。ご住職の許可を得て
撮影させていただきました。

袈裟に描かれているのは
赤松氏の家紋「左三つ巴」ですが
江戸時代に修復された際、、
肩の部分に一部、間違って
「右三つ巴」が描かれたために、
国の文化財の指定を受けられ
なかった悲劇の木像でも
あります。

(現代のネット上でも、逆回転の
ものが赤松氏家紋として幅を
利かせてしまっていますねえ・・・)

 時は1333年。モンゴル襲来をきっかけに力を失い、武士からも民衆からも支持を失っていた鎌倉幕府を倒すため、播磨国佐用荘苔縄(はりまのくに さよのしょう こけなわ=今の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)で57歳になる一人の武将が兵を挙げました。千種川の上流で採れる上質の鉄や木材と、その水運による物流をその手に握って力を蓄えた「悪党」赤松円心(あかまつ えんしん)です。
 「悪党」と言っても現在の「悪い奴ら」とは大きくニュアンスが異なり、当時の既成観念から見ると型破りな風体や思考を持つ集団であり、実力で手にした権益を守るために幕府や寺社に反抗する武装集団。反政府組織のようなもので、為政者側から見ればまさに極悪人・・・。
 とされてきたのですが、今では赤松氏はもともと鎌倉幕府の御家人
(ごけにん)だったという説が有力になっています。また悪党の位置付けも随分変わってきています。前述のストーリーにはロマンがあっていいんですけどね〜。(歴史にロマンなど不用。)

 後醍醐天皇の命令を奉じ河内国で幕府の大軍勢を引き付けて揺らぎもしない楠木正成(くすのき まさしげ)に呼応する形で挙兵した円心は、素早く背後を固めると一気に東上。摩耶山(まやさん/神戸市)で幕府の大軍を山の中に引きずり込んで粉砕し、瞬く間に京の都に雪崩れ込みます。
 何度か敗れて窮地に立たされることもあったものの、最後まで諦めることなく、京の喉首に当たる山崎方面に陣取り、都に圧力をかけ続ける様子が古典「太平記」に描かれています。つまり山陽道を押さえることで、西国からの物資の流通を妨げ、京都を兵糧攻めにするという物流の支配で力を付けた武将らしい斬新な戦いをしたのです。


 一方の鎌倉幕府は、名越高家((なごや・なごえ・なごし) たかいえ)足利高氏(のちの尊氏)という二人の武将を大将とする援軍を呼び寄せ、差し向けますが、鬼神のような豪勇を見せた名越高家も赤松一族きっての弓の名手・佐用範家(さよう のりいえ)によって一矢で射殺され、足利高氏が寝返ったことで京は陥落。その直後に鎌倉も新田義貞(にった よしさだ)によって攻め落とされ、鎌倉幕府は滅亡しました。
 しかし、これだけの活躍をしたのにも関わらず、後醍醐天皇は円心に何の恩賞も与えませんでした。円心は怒って故郷に引き上げます。


 後醍醐天皇が行った「建武(けんむ)の新政」は結果的に失敗。さらに足利尊氏後醍醐天皇の間では対立が始まり、朝敵(天皇に反抗するもの)とされた尊氏は京で大敗しました。その尊氏を助けた円心が室津(たつの市御津町)で3つの献策を行う場面が「梅松論」(ばいしょうろん)に登場します。

一、尊氏は一旦九州に落ち延び、そこで力を蓄えて、再び京を目指すこと。

二、円心を播磨の守護に任命するなど、西国の各地に有力な武将を配置し、京から攻め降る軍勢を迎え撃つこと。

三、戦とは旗印でやるものだ!!この度無残に敗北したのは、尊氏が「朝敵」であったからだ。
そこで、皇位を巡って後醍醐天皇と長らく対立関係にある血筋(持明院統)である、先代の天皇(光厳上皇
(こうごんじょうこう))を推戴し(担ぎ出し)、院宣(いんぜん=退位した上で政治の実権を握った元天皇の命令書)を得ることができれば、「朝敵」の汚名は一気に消し飛んでしまう。(南北朝時代のスタート)
新田6万の50日に渡る包囲に耐え抜いた
白旗城跡。標高440m。

 当然ながら円心は尊氏追討軍の第一の標的にされてしまいました。
 「太平記」によれば3千と言われる赤松軍に対し、迫りくる
新田義貞の軍勢は6万!しかし幾ら武勇を称えられていても猪突猛進型の義貞など、後醍醐天皇すら策略のネタにしてしまう老獪な智将、赤松円心にかかってはまるで子供同然。円心は新しく築いた白旗城(しらはたじょう/上郡町)に立て篭もり、尊氏が九州で勢力を蓄えて東上してくるまで守り抜き、後醍醐方の軍勢を足止めしました。

 足利尊氏は湊川(神戸市)で後醍醐方の名将、楠木正成を撃破し、後醍醐天皇を吉野(奈良県)へと追って、のちに室町幕府と呼ばれることになる政権を打ち立てることになります。
 円心は尊氏政権下の重鎮として活躍し、幕府成立の14年後に74歳という長寿を全うしました。


 山間部の小さな小さな領土から出発して、「人間50年」の時代に、50歳を越えてから本格的に歴史の表舞台に躍り出て覇業を成し遂げ、長寿を全うしたところ、知略を縦横に発揮して大敵を破る戦いぶり、目立った反乱をほとんど起こされることの無かった様など、円心の生き様は戦国時代の毛利元就を連想させませんか。
 毛利元就は三本の矢の逸話で知られるように、非常に優れた息子達に恵まれましたが、実はそんな所までよく似ているのです。

・赤松家全盛時代  赤松則祐・義則

 円心の子、範資(のりすけ)(実は円心の一歳違いの従弟で養子)、貞範(さだのり)則祐(そくゆう)氏範(うじのり)はいずれも優れた武将でした。特に三男の則祐は円心挙兵のずっと前から後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)の近臣として吉野・熊野で倒幕の厳しい戦いで活躍し、京攻めでも播磨の戦いでも大きな功績を立て続けました。
円心の素質を強く受け継いで思慮深い人物であり、詠んだ和歌は「新拾遺集
(しん・じゅういしゅう)」「新千載集(しん・せんざいしゅう)」といった和歌集に何首も載せられるように教養も深い人物で、円心の死後一年で範資が病死すると、未だ治まる気配すらない戦乱の世の難しい舵取りは、この則祐に託されたのです。

こちらも円心館の則祐の木像。
これらは寿像と呼ばれ、
還暦を祝って造られたそうです。

則祐はほぼ一貫して幕府を支えました。楠木正儀(くすのき まさのり)細川清氏(ほそかわ きようじ)の率いる南朝軍によって2代将軍足利義詮(あしかが よしあきら)が京を追われたときは、山陰の強敵・山名時氏(やまな ときうじ)との対決が迫る中であるにも関わらず、将軍の子の春王(はるおう)を白旗城に匿い養育しました。この春王こそ後の足利義満(よしみつ)であり、則祐は以後義満の親代わりとして全幅の信頼を寄せられます。

 白旗城では春王の寂しさを紛らわすために、「松ばやし(赤松囃子)」という郷土芸能を演じさせました。この経験が後に
観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)らを重く用い、「能」を大成させる原点になったとされています。
 ちなみに松ばやしですが、人々が箱庭のような大きなものを頭に載せて歩いている様子が描かれた史料を見たことがあります。一種の仮装行列で、現在の博多のどんたくの元になったもののようですね。

 当時の公家の日記は「随分の大名の上、武家のための忠功他に異なるものか、惜しむべし、惜しむべし」と則祐61歳での訃報を書き記しています。家督は則祐の子、
義則が相続しました。

 義則山名氏清(やまな うじきよ)らが起こした反乱「明徳(めいとく)の乱」で大活躍。恩賞として美作(みまさか=岡山県北部)の守護職(しゅごしき=現代でいえば県知事に県の軍事・警察・裁判所の長を合わせたような職))を獲得しました。こうして彼は播磨・備前・美作という3国の統治を任された大名(たいめい=幕府から多くの国の統治を任された有力者)となり、幕府の軍事・警察の長である「侍所頭人(さむらいどころ とうにん)」に任じられて、赤松家の全盛期を作り上げました。

・将軍暗殺!  赤松満祐

 赤松家の栄光も、義則の後を継いだ満祐(みつすけ)の時代に入って暗転します。一族との対立、播磨の民衆の大規模な反乱・・・。
室町幕府の6代将軍に就任した
足利義教(あしかが よしのり)は、将軍への権力集中を目指して「薄氷を踏む時節」と評される恐怖政治を推し進め、家督争いを誘発させたり暗殺や討伐で大名達の勢力を削ぎ、比叡山を焼き討ちして何人もの高僧を斬り、公家に難癖を付けて処罰するなど、気に入らぬものは情け容赦なく処断していきました。そんな義教が次に赤松家を標的とするのは、火を見るより明らか。

 そこで満祐は先手を打ちました。義教を自邸に招いて斬り殺してしまったのです。
 「第六天魔王」というあだ名を持つ将軍
義教の死を、「将軍かくのごとき犬死に、古来その例を聞かざる事なり」と、当時の書物に馬鹿にしたように書かれています。
 しかし、このような事件を起こしておいて満祐が無事な訳がありません。満祐は、
山名宗全(やまな そうぜん)を中心とする幕府の大軍の攻撃を受けて城山城(きのやまじょう/たつの市)で自害。赤松家は滅亡し、領国の大部分は山名家に与えられてしまいました。

 落城寸前に脱出した満祐の弟や子供たちはバラバラに落ち延びますが、次々と討たれていきます。
 嫡男・
教康(のりやす)は伊勢(三重県)で殺され、豪勇で知られた満祐の弟・則繁(のりしげ)は、倭寇(わこう=海賊行為もする貿易商人)を率いて朝鮮半島に押し渡って暴れていましたが、帰国したところを討ち取られました。
 また
赤松満政(みつまさ)則尚(のりひさ)といった一族が起こした挙兵もことごとく失敗し、赤松家の血筋は完全に絶えたかと思われましたが、実は満祐の弟・義雅(よしまさ)の幼い孫が残っていたのです。
 次郎法師丸。後の
赤松政則です!

・復活! 稀代の文化人  赤松政則

 この頃、後南朝(ごなんちょう)、つまり南朝の残党が京都に潜入して三種の神器を奪い去るという大事件が勃発します。
 剣と鏡はすぐに取り返されるのですが、もう一つの「神璽
(しんじ=勾玉の入った箱)」は奪われたままになっており、赤松家の旧臣たちはお家再興を条件にこれを奪回するという密約を取付けて、苦難の末に実現させました。
 この時旧臣達は、吉野で後南朝の皇子である
自天王(尊秀王)(じてんのう そんしゅうおう)忠義王(ちゅうぎおう)を殺害しており、後南朝はこれを機に事実上歴史から姿を消すのですが、南北朝という異常な状態のきっかけを創ったのは赤松家、その後始末をしたのも赤松家という所に因果というものを感じてしまいます。

 密約の通り、
赤松政則は加賀(石川県)の半国をもらって復活しました。
 それから9年後、全国の有力大名たちの後継者争いを火種とする応仁の乱が勃発。
政則浦上則宗(うらがみ のりむね)赤松政秀(高枕軒歓岩性喜こうちんけん かんがん しょうきといった配下の名将の援けを受け、この戦乱に乗じて播磨・備前・美作を奪い返し、再び3カ国を支配する大名に返り咲きました。

 その後、政則は、現在の姫路市夢前に置塩城
(おきしお(おじお)じょう)を築いて本拠としました。この城は標高370mの山上に広がる壮大な山城で、石垣や様々な防御施設の他、枯山水の庭や茶室の跡が残り、現在数枚しか残っていない「赤松小判」や、見事な彫刻の施された「置塩鏡」といった遺物から、播・備・作3カ国の政治や高度な文化の中心でもあったことが伺われます。

置塩城の大石垣。この城の調査で得られた
成果は日本の城郭研究に大きな一石を
投じることでしょう。

 政則自身も当代一流の文化人で「能」には特にうるさく、一流の演者たちもみな政則の批評を気にしたといいますし、刀工としての腕は趣味の域をはるかに超えており、見事な太刀や短刀が現代にも伝わっています。
 ちなみに鍛冶としての腕は子孫にも伝わったようで、
戦国期の赤松政秀(龍野城主。後に紹介する広秀の父。政則を支えた赤松政秀とは別人)などは、中国地方の雄・毛利元就の依頼によって彼の愛用の刀の鍔を造っています。筆者は昔、安芸高田市吉田歴史民俗資料館の特別展示で見ました。

 ただ、政則の領国支配は平坦ではありませんでした。
 文化人を直接の家臣としようとしたり、宿敵・山陰の
山名政豊(やまな まさとよ)に大敗したことがきっかけで浦上則宗を中心とする被官人(ひかんにん≒家臣)たちに愛想を着かされ追放されてしまったこともあります。

 この経験から、再び当主として復活すると、今まで以上に幕府に密着し、その力を後ろ盾に権力を維持しようとしますが、幕府の力もすでに昔日のものではありませんでしたし、
浦上家などの有力な被官に推戴されるという体制からの脱却も、政則の早すぎる急死によって頓挫してしまいました。そしてそのツケが赤松家に重くのしかかってくるのです。

・名門の落日  戦国時代の赤松家

相生市の感状山城。新田義貞との白旗城の戦いで
則祐がこの城で大きな戦功を挙げ、尊氏から感状
をもらったことが名前の由来。戦国期には
龍野赤松家と浦上や宇喜多との間の熾烈な
戦いの舞台になったか?

 政則は先祖・円心の長男・範資の家系から義村(よしむら)を養子に迎え、後継者としました。義村は側近に権力を与えることで有力被官を押さえ込もうとしますが、度重なる敗戦により失敗し、最後は浦上村宗(うらがみ むらむね)によって室津に幽閉されて殺害されてしまいます。

 浦上村宗の操り人形として成長した義村の子晴政(はるまさ)は、現在の尼崎市辺りで起こった大物崩れ(だいもつくずれ)と呼ばれる戦いで、突如として村宗に攻めかかって討ち取り、父の敵討ちを成し遂げました。
 しかし晴政は中国地方の八カ国を手中に収めていた出雲(島根県)の大大名・
尼子晴久(あまご はるひさ)の播磨侵攻に苦しみました。尼子氏撤退後には息子の義祐(よしすけ)と対立し、龍野城主赤松政秀(二代目)のもとに逃れて周囲の勢力を巻き込んだ複雑な争乱を引き起こすなどして勢力を大きく衰えさせてしまいました。

 武田信玄と同世代である
義祐(よしすけ)の頃になると、備前・美作はすでに浦上家のものとなり、播磨でも別所・小寺・宇野・龍野赤松・上月赤松などの諸氏が乱立し、赤松本家の領地は置塩城を中心とした僅かなものになってしまっていました。
 なお、弘治元年(1555年)にこの義祐あるいは晴政が、置塩城で催した大宴会で供された料理等の詳細な記録が残っています。こちらのページで解説していますので、当時の宴会を追体験してください!

 東から
織田信長、西から毛利家の勢力が伸びてきて、播磨が二つの大勢力がぶつかる最前線になると、義祐の子、則房(のりふさ)信長と、その中国方面軍司令官羽柴秀吉に従って活躍します。そして四国・阿波住吉(徳島県藍住町)に領地換えとなり、播磨を去ります。
 ちなみにこの則房は戦国時代の風習や豆知識、炎上必至の身内ネタなどを数多くの短文で書き留めた書物「赤松則房雑談聞書」という面白い史料を残してくれています。

 その後の赤松本家の消息ははっきりしません。則房の子が関が原で西軍について自害という伝説もありますが、それも軍記物語の話ですし・・・。

・早すぎた名君  赤松広秀(広通)

 赤松家の再興を果たした政則には村秀という実子(出自については諸説あり)がありました。村秀は赤松一族の赤松政秀(性喜)に預けられ、やがて龍野城の城主となりました。(龍野赤松家)
 村秀の子である
赤松政秀(二代目)は、赤松晴政派として活躍し、室津城を夜襲して浦上村宗の子・政宗を討ち取るなど勢力拡大を推し進め、足利義昭・信長ともいち早く誼を通じましたが、反義昭・反織田派だった黒田官兵衛(くろだ かんべえ)との戦いに逆転負けし、その後、浦上政宗の弟・宗景(むねかげ)に圧迫された末に毒殺されてしまったようです。

壮麗な石垣が残る竹田城(朝来市)
元々は山名家が赤松家の侵入に備えて築城。
豊臣政権下で本格的な城郭に整備されるも、
関が原後に廃城。
その城の最後の城主が赤松一族とは歴史の
皮肉か。

 羽柴秀吉率いる織田家中国方面軍が播磨制圧に乗り出した時の龍野城主は、政秀の子である赤松広秀(最初は広英(ひろひで)といい、文人としては広通(ひろみち)として知られる)でした。
 広秀は抗戦は無理だと判断し、戦わずして城を明け渡して旧領の片隅・佐江村で謹慎しました。
(この村にちなんで名字を斎村(さいむら)と名乗ったとも言われている)
 しかし、広秀はしばらくすると謹慎を解かれ、秀吉の家臣、
蜂須賀小六正勝(はちすか ころく まさかつ)の下で全国平定の戦いに従軍。いわゆる中国大返しの殿(しんがり=退却する軍の最後尾という、危険で難しい任務)を務めるなどの活躍をし、但馬国竹田(たじまのくに たけだ/兵庫県朝来市)2万2千石の領主として取り立てられました。
 なお、広秀の復活には、
赤松政秀の娘(つまり、広秀のきょうだい)で、15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)に侍女として仕え、のちに織田信長の養女となって関白・二条昭実(にじょう あきざね)に嫁いだ「さごの方」の存在も、大きな影響を与えたのではないでしょうか。

 さて、広秀の居城となった竹田城は、穴太積み(あのうづみ)という技法の石垣が張り巡らされた壮麗な山城ですが、その城下は耕地も狭く、民の暮らしは困窮していました。
 そこで広秀は、年貢を驚くほど軽減しました。また、暴れ川だった円山川の治水を進めるとともに、水害地には桑の木を植えて養蚕を振興。さらには竹田の気候と群生していたウルシに目を付けて、漆器の生産を奨励しました。
 広秀の興した産業は、後世大きな実を結びます。但馬は生糸の一大産地となりますし、漆器作りは家具作りへと発展。和田山の「竹田家具」として、その名を轟かせることになります。

 また広秀は、幼馴染の大儒学者・
藤原惺窩(ふじわら せいか)を生涯にわたって支援し続け、自らも儒学を学び実践しました。朝鮮出兵の時に捕虜になった(きょうこう)からも教えを受ける一方、四書五経の書写を依頼し、その代金を帰国のための費用として用意するなど、親しく交流しています。

 関が原の戦いの際、広秀は初め西軍に味方しますが、後に旧知の
亀井滋矩(かめい これのり)の誘いで東軍に鞍替えして鳥取城を攻め落としました。
しかし、城下を焼き払ったことを
徳川家康に咎められた亀井が、その責任を全て広秀に被せてしまい、さらに広秀の妻が西軍の中心人物であった宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の妹であったことから、広秀は切腹を命じられて39歳の生涯を閉じ、龍野赤松家の系統もついに滅亡したのです。

・その後

宝林寺の裏山から見る赤松家の故郷
佐用荘赤松村(上郡町赤松)と白旗城(左奥)

 赤松家は関が原を越えられずに完全に滅亡してしまったのでしょうか?
 いえ、そんなことはありません。則祐の子、つまり赤松家に全盛期をもたらした義則の弟にあたり、代々有馬温泉辺りを領した有馬義祐(ありま よしすけ)の子孫・有馬豊氏(とようじ)は関が原では東軍に付き、戦後九州・久留米21万石の領主として明治維新を迎えています。15代当主有馬頼寧(よりやす)は、競馬の有馬記念にその名を残しています。

 また赤松家の血を引くと自称する剣豪の宮本武蔵や、太平記読み、つまりは後の講釈師の開祖とされる赤松法印(あかまつ ほういん)。幕末に勝海舟らと共に咸臨丸でアメリカに渡り、維新後には造船の父と呼ばれた赤松則良(のりよし)など、その子孫からは多種多様な人材が輩出し、相変わらず歴史を作り続けていったのです。


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